誰かが私に
「あなたは優しいから」
「あなたはいつも元気だね」
そんな言葉をかけてくれることがある。
嬉しい気持ちもあるけれど…
「それは違う」
小さな声で心の中で抵抗している。
なぜなら…
優しくしているつもりはないし
本当は
「元気」と言われる私の中には
うじうじと考えてしまう
誰にも見せていない気持ちが
たくさんあるから。
誰かが知っている私
私が知っている私…
どっちが本当の私なんだろう。

誰かの知っている私への違和感。
以前、
人のサポートをする会社に勤めていたとき
担当する相手と、
定期的に面談する機会が設けられていた。
面談の際には、相手の気持ちをしっかり汲み取り
次に活かせるよう話をしていくのだが
話をするなかで、
相手に同調することも多く
楽しい話であればよく笑い、
悲しい話であれば、一緒になって涙ぐむこともあった。
そんな中、同僚や上司から
「優しいから、入り込んでしまうね」って
言われたことがある。
その言葉に、少し驚きながら
私は優しいのかな?と、
疑問に思ってしまった。
共感力は高いほうだと思うけれど
それが優しさかと言えば
心の中では
どこか違う気がしていた。
ほかにも
「いつも、明るく元気だね。」
ってよく言われていた。
もちろん、会社では、
まわりが嫌な気分にならないよう
努めて明るくふるまっていた。
まわりとのいざこざを
起こしたくない気持ちもあった。
うまく関係が築けるよう
細心の注意を払いながら
なるべく笑顔で過ごしていた。
けれど
「いつも明るくて元気だね」
そう言われると…
やはり、心の中では
そんなことはない…
そう思ってしまう。
いつも
誰かの知っている私には…
どこか違和感があった。

私が知っている私の姿
そんな違和感から
私はなぜ
優しく見られる行動をしていたんだろう
そう考えるようになった。
特に誰かに優しくしようと
意識していたわけではなかった。
ただ、誰かが困っていたら気になってしまう。
悲しい出来事を聞くと、
まるで自分も同じ場所にいるように、
その痛みまで感じてしまう。
その一方で
誰かに嫌われたくない気持ちもあった。
場の空気を悪くしたくない気持ちもあった。
明るく元気に見える私には
誰かが落ち込んでいたら
笑えるようにおどけてみたり
みんなが疲れていそうなら
私は平気そうに
まわりのサポートに徹したり
無意識に動いてしまう自分がいて
家に帰って一人になるとクタクタの時も
たくさんあった。
じゃあ、これは優しさなのか。
それとも自分を守るためなのか。
考えれば考えるほど
どちらかひとつには当てはまらなかった。

誰かに映る私と私が知っている私の差
こうやって
誰かに映っている私と
私が知っている私の姿が違って見えてしまう
そのギャップが大きくなると
「私って、表と裏があるのかな」
そんなふうに
自分を嫌に感じてしまうこともある。
「優しいね」
って言われると、
私を素通りして、
別の誰かのことを言っているんじゃないか
と思うほど、困惑してしまう。
そして誰かからの
優しいイメージが壊れないよう
自分の気持ちを
ぐっとこらえてしまうことさえあった。
「明るくて元気がいいね」
って言われると
そのイメージを壊さないように
つねに、笑顔でいるように
必要以上に無理をする。
いつの間にか、ギャップを埋めるように
私が知っている私よりも
誰かに映るいいイメージの
私に近づこうとしている
そんな自分がいた。

たくさんの私があっていい。
優しい、明るい、元気
とか、
いい印象の場合
本人へ伝わることも多いけれど
もしかすると
私の知らないところで
よくない印象を持たれている私も
いるのかもしれない。
私自身も
相手を思って行動するときもあれば
自分の都合で動いてしまうこともある。
いろんな面を持っている自分と
誰かから見えている自分。
そのすべてを一致させようと思っても
きっと難しい。
誰かにどう思われるか
考えすぎると
心が
しんどくなってくるだけかもしれない。
誰かを気づかっている私も
嫌われたくないと思っている私も
明るく笑っている私も
一人になって考え込んでいる私も
どれかひとつだけが
「本当の私」ではないのかもしれない。
誰かが知っている私も
私が知っている私も
どちらかが偽物ではなくて
どちらも自分。
ところどころに
曖昧なところがあっても
いいのかもしれない。
たくさんの私が…
あっていい。


